2003.11月 第56号
モットーは、「自分自身の指で考えよう!」
ピアノを弾く身体
「魅力的な演奏」と身体との絡み合いとは?
岡田暁生 先生
今春出版された「ピアノを弾く身体」(春秋社 刊/2300円)は、演奏する「身体」を軸に、ピアノを弾くことの本質に迫った一冊。「魅力的な演奏」はどうすれば生まれるのか、ピアノを弾く「身体」は、どうあるべきなのか……? 本書の監修を手がけられた岡田暁生先生にお聞きしました!
◆「最初から表現」だ!
―― この本はどういったコンセプトで書かれているのですか?
まず最初に申し上げておきたいのは、僕らはこの本をピアノ演奏家としての立場からではなく、徹頭徹尾「聴き手」の側から書かせていただいたということです。「聴き手」とは、愛好家の立場であり、批評家でもあり、研究者でもある。その立場から、演奏家に対しての「もっとこんな音楽を聴かせてほしい」というリクエストを著したいと思いました。これまであまりにこういう問題について音楽を受け取る側が発言をしてこなさ過ぎたような気が僕はしてます。
―― 「聴かせてほしい」音楽とは、例えば?
最近こういうお話をする時に、聴き比べていただいているCDがあるんです。セロニアス・モンクという、ジャズ・ファンならモンクにはまらなかった人はいないというくらい非常に特徴的な弾き方をするジャズピアニストのナンバーで、ひとつはクラシックのピアニストが「楽譜通りに」「正しく」弾いたもの、そしてもうひとつはモンク自身によるもの。それを聴き比べてもらって反応を見るのは楽しいんですよね。鍵盤をバンバン叩くようなモンクの身振り性はやはり強烈で、ある大学の授業で学生にこれを聴かせたところ、途端に大爆笑でした。それは僕は健全な反応だと思います。ところが、あるピアノの先生の集まりで「どちらが魅力的だと思いますか」と尋ねた時に、皆さんモンクに手を挙げなかったんですね。これは深刻だぞ、と。
それからもう一組聴き比べてもらっているのが「ツェルニー40番」のCDで、クリストフ・エッシェンバッハの演奏と、日本のさる有名な先生の演奏。エッシェンバッハの演奏はペダルも使ってますが、流れるように優雅で、こういう風に聴いたらツェルニーって全然悪い曲じゃないじゃない、というくらいステキなものです。でも、ピアノ科の学生にこのCDを聴かせても、自分が弾いてきたものとあまりに違うので何の曲だか分からないんですよ。それで、その次に有名な先生によるダカダカダカダカ、という演奏を聴くと「あっツェルニーだ」と分かる(笑)。
ここで申し上げたいのは、これらの演奏を聴いたあとでも、「きちんと弾けるようになってから、そのあとで表現」なんてことを信じますか? ということなんですね。つまり、一旦しみ込んでしまった身振りというのは、それはもう言葉の“なまり”が簡単には取れないのと同じだと思うんです。さらに言うならば、「最初から表現」ではないのか、と。
音楽とは、大きな「身振り」を把握することであって、まず初めにこの曲がどういうジェスチャーのものなのかということを身体で捉えなければ、その先何も始まらない。「きちんと」弾けるようになって、そのあとに身振りを加えたらいい演奏になる、というわけでは絶対にないはずです。
◆ピアノという楽器は、
本来どう弾いたっていいはず。
―― 本文で引用されている「正しく弾ければ鼻で弾いてもかまわない」「自分自身の指づかいを探そう!」などの言葉は、普段のピアノレッスンではなかなか出会えない、興味深い言葉ですね。
どんな楽器にも言えることかもしれませんが、ピアノという楽器は、本来どう弾いたっていいはずなんです。例えばショパンやリストが出てきた時というのは、それまでの音楽家たちは唖然としたと思います。こんな弾き方とんでもない、というようなことをやってのけたわけですし。それからモンクの弾き方も、クラシックではまったくのタブーとされている奏法ですが、ジャズの身振りには一番合ってるんですね。さらにおかしい例としては、'50年代のアメリカにはマイクをピアノの鍵盤の前に立ててそのマイクをよけながら弾くという、すさまじいロックンロール歌手がいたわけです。彼はその体勢で歌も歌って、おまけに最後は足まで使って弾く(笑)。でも完全に音楽になっているんです。要するに、奏法というのは「どんな音が出したいか」ということとすごく密接に結びついているはずだし、唯一の正しい弾き方なんてないんじゃないかと僕は思うんです。
また一方では、「どう弾いてもいい」と言っても、やはりある程度適切な弾き方というのはあると思うんですね。ただ忘れてはいけないことは、適切な弾き方とは、時代ごと、作曲家ごとにそれぞれ絶対違うはずだということ。例えば1800年頃のピアノは今のピアノとは全然違うものですから、当然弾き方も違ってくるはずです。だから一概に「手を丸めて弾きましょう」と言っても、今のスタインウェイを弾く場合には何でこんな弾き方が基本なのか分からないくらい弾きにくいと思うんですよ。でも、1800年頃のピアノだと、なるほどツェルニーが「手を丸めて」と言ったのがとてもよくわかる。それからもっと言えば、ハイフィンガー奏法にも正しい文脈ってあると思うんですね。ショスタコーヴィチとかプロコフィエフにはこの奏法が一番向いていますしね。ただ、これでもってショパンを弾くのは間違っている、という話で。だからこうしてみると、おそらくピアノと付き合うということは、半分くらいは音楽史を学ぶことだと僕は思います。
それから、聴き手としては、こんな身体の使い方だってできるという「発明する喜び」を発散する音楽をもっともっと聴かせてほしいと思いますね。ピアノを習っている子たちが将来全員ショパンを弾かなくてはいけないわけではないし、将来ロックンローラーのピアニストになって、足を使って弾いてもいいわけですから。そういう芽をつぶさないためにも、身体のインベンションには目覚めてほしいとつくづく思います。
◆いい演奏とは、「いい演説」である。
―― 本の中では、日本のピアノ教育の特異性にも触れられていますが、海外との顕著な違いにはどんなことがありますか?
僕が滞在していたのはドイツですけれども、ドイツでは「下手だけどうまい」という、日本ではほとんど見られない現象にしばしば遭遇しました。間違い倒すんだけど雄弁でやりたいことはわかる。
おそらく、彼らは音楽をちゃんと文章として理解できているんだと思うんですね。それこそテュルクの本(春秋社刊「テュルク クラヴィーア教本」)にも書いてありますが、「いい演奏とはいい演説である」。だから息継ぎをちゃんとする、「。」のところではちゃんとマルを打つ、それから「?」だったらちゃんと抑揚をつける。彼らの演奏が下手なんだけどうまい、つまり伝わるというのは、要するにちゃんと文法を守っているからなんだと思うんですよね。一方、我々は彼らほど文法を知りませんから、きっと句読点をめちゃくちゃにしていたりするんでしょうね。
それから、音楽が文章であるということを考えると、例えば「粒をそろえて弾く」ということも、あんなナンセンスなことはないと僕は思うんですよね。ドレミファソラシドというのは、調性音楽では必ずムラがあるんです。「シ」の音は上にいきたがるし、「ファ」の音は「ミ」に落ちたがるわけだし。それを全部等価で弾いてしまったら、それは調性感のない音楽になってしまう。つまり、インテンポで粒なんてそろえて弾いたりしたら何が起こるかという
と、「にーほーんーのーきょーうーいーくーしゃーのー……(抑揚なくお経のように読む)」こうなるわけです。
―― それでは、ピアノの先生にメッセージをお願いします。
やはり先生自身がいい愛好家であってほしいし、生徒に「鑑賞する」ことを教えてほしいと思いますね。30分の限られたレッスン時間では難しいことは僕もよく分かっているつもりですが、場合によってはすばらしい演奏の映像を見せるとか、レッスン
の曲で、同じ曲でもすごい人が弾いたらこんなにステキになる、というのをCDで聴かせてあげるとか、もっと言えば先生自ら手本を示してあげるとか。つまり、聴く耳を育てなければ、あるいはいろいろな身体のイメージが把握できなければ、身体がついてくるはずないですからね。頼むから力ませるのだけはヤメテー、と言いたい(笑)。
―― 何かおすすめ盤を教えて下さい。
絶対おすすめなのは、ドイツ・グラモフォンから出ているエッシェンバッハの「ブルグミュラー25の練習曲」と「ツェルニー40番練習曲」です。それから、シューマンのユーゲントアルバムだったら、最近聴いた伊藤恵さんのものは素敵な演奏でしたね。ああいう超一流の人が弾くとどんなふうになるのか、というのを是非聴いてみてほしい。その他にも、ホロヴィッツやミケランジェリのCDも手に入るし、フランソワの演奏だって、すべてレーザーディスクで見ることができます。彼らがどんな格好で弾いていたかというのは、やはり一見に値すると思います。
( 完 )
(取材・文 LPO編集室)
◆プロフィール
1960年京都生まれ。大阪大学文学部博士課程単位取得退学。ミュンヘン大学およびフライブルク大学で音楽学を学ぶ(DAAD)。大阪大学文学部助手、神戸大学発達科学部助教授を経て、現在京都大学人文科学研究所助教授。文学博士。
著書「オペラの運命」(中公新書、2001年、サントリー学芸賞受賞)「バラの騎士の夢」(春秋社、1997年)「音は生きている」(共著、勁草書房、1991年) |