2006.11月 第92号
春秋社
「フォーレ全集」完結
春秋社版の成り立ち、特徴と校訂のポイント
(全5巻 校訂・編集/美山良夫・藤井一興《運指》 各2100〜3675円)
美山良夫 (全集校訂担当者)
いったい私たちは、フォーレについて正確に知っているのだろうか。フォーレのイマジネーションの根源を思うことができるだろうか。校訂作業に入る前に、日本で、この時期に、フォーレのピアノ音楽をすべて出版すること自体がもつ意義や使命を考え、そこから出版のコンセプト、校訂方針を導き出すことにした。
その結果、この出版は、単に譜面を整えて日本の音楽家にフォーレの楽譜を提供するだけでなく、作曲家とそのミリュー(環境)、個々の作品に関する詳細な紹介、演奏に関するさまざまなアドヴァイスも収載し、フォーレのピアノ音楽を広く深く理解するための出版と位置づけられた。
従来からフォーレのピアノ音楽の出版楽譜に誤りや疑問点が多いことは指摘されてきた。友人たちも、直接フォーレに誤りを繰り返し伝えた。フォーレは、楽譜を精密正確に清書して出版社に渡すようなことはしていない。指摘をうけると、誤りを認めはしたが、それが出版楽譜の訂正につながりはしなかった。
世を去る一年前の1923年11月、フォーレは出版者のひとりエドガー・アメルに手紙を書き、ウージェルおよびデュラン両社が保有する自分の作品の版権を取得、ピアノ音楽のまとまった出版をロジェ=デュカスの序文つきで出版してほしいと伝えた。フォーレのプランは、第一巻「夜想曲(全13曲)」、第二巻「舟歌(全13曲)」、第三巻「即興曲(全6曲)」と「ヴァルス・カプリス(全4曲)」というものであった。
フォーレの願いは、当初ウージェル社から出版された即興曲第4、5番がアメル社から「5つの即興曲」に含まれ出版されたほかは、まったくかなえられなかった。「夜想曲」第1番から第8番に関しては、旧版を一部修正し、ロジェ=デュカスの序文を付して再版した。しかしその版はフォーレが了承した楽譜ではない。1924年9月、改訂された「夜想曲集」(第1〜8番)のゲラ刷りを見たフォーレは非常に不満で、ロジェ=デュカスにあてて、「この楽譜がいまあるような形で出版されるのは、なんとしても阻止しなくてはならない」と伝えた。だが2ヶ月後に作曲者が亡くなると、アメル社はフォーレの考えを無視して刊行、以後も改訂版出版や楽譜訂正をしなかった。
春秋社から全集を刊行するにあたり、校訂者は作曲家自身のプランを基盤としつつ、四手用作品等もすべてを収め、作曲者の「遺志」をこえる全集をめざした。またフランス版が放置し、フォーレを悲しませた誤り、不明瞭さを、可能な限り解消することも、この全集の重要な責任と考えた。
1986年から刊行の始まった春秋社版は、エディション作成の基本をつぎの5つの特徴に集約している 。
@フォーレのピアノ様式と特徴的な楽譜の書き方をふまえて検討
をかさね、今日ひろく用いられている記譜を採用。従来の版の
誤りや不備を正し、必要に応じてテクスト校正上のコメントを付
す。
Aフォーレのピアノ様式を生かした的確な運指法。
B解釈上のアドヴァイスや各曲の演奏上のポイントをわかり易く
提示。
Cフォーレのピアノ作品のスタイルと、作品が書かれた時代・環境
を最新の資料をもとに解説。
D譜読が容易なスマートなレイアウト。
こまかな、膨大な校訂作業についてここで語る必要はないであろうが、なかには思い切った決断も必要であった。フランス版の音そのものを誤りと判断、訂正したこともある。連弾曲「ドリー」は、通常のようにプリモとセコンドを左右ページに見開きに対置するのではなく、上下にスコア状に配置した。
こうした作業とは別に、フランスの運指法による表情やニュアンスを、日本のピアノ学習者に伝えようとする藤井一興氏による運指の、やはり膨大な仕事も特記しなくてはならない。
●美山良夫(みやま・よしお)
慶応義塾大学教授、武蔵野音楽大学講師。慶應義塾大学、同大学院、およびパリ大学音楽学専攻博士課程に学ぶ。西洋音楽史専攻。 |